絵画所有者の権利、所有権と著作権、最高裁判決批判

 「顔真卿自書建中告身帖」事件最高裁判決(昭和59年1月20日第二小法廷)は明らかに誤判であり、この判決により美術品所蔵家、美術館、博物館に与えたダメージは計り知れない。以下にその理由を述べる。
1、判決は、標記古文書が、「著作権保護期間が満了し、著作権の消滅した著作物」との前提のもとになされているが、当該古文書の書かれたのは780年であり、しかも唐の人の書である。この当時、当の唐はもとより、世界中のいずこにおいても著作権法は制定されていなかったのであるから、当該古文書が著作権法により保護された事実はなく、したがって標記墨書は著作権の消滅した著作物には当たらない。 いうまでもなく、最初からなかった権利が消滅しようのないことは、未婚の人が離婚できないのと同様、解りきったことである。
 仮に、後に制定された法により過去の著作物に著作権を付与したと仮定しよう。これには、著作権法が遡及適用されることが大前提となるが、明治著作権法においても遡及の条文は見当たらない。同法の47条で、「本法施行前に著作権の消滅せざる著作物は本法施行の日より本法の保護を享有す」との文言があるが、これは先進国の著作権法により保護された著作物が日本に持ち込まれた場合、日本の著作権法で保護するとの意味であって、遡及を明示したものではないと解する。
 もし著作権法が遡及するとした場合、いつまでさかのぼって適用するのかを明記しなければならない。まさか人類発生時まで遡及、というわけにはゆくまい。仮に相当以前まで遡及すると、著作者の子孫が何人かわからないから、保護の意味がないこととなる。仮に、法施行時存在する著作物のすべてを保護対象とした場合、その保護期間が何年なのかも問題となる。この場合も、著作者の子孫が不明の場合がほとんどで、権利付与の意味がない。
2、判決は、所有権の客体は有体物であり、美術品の美術的面は無体物であるから著作権の客体であると示している。
 しかし、無体物は観念的、抽象的存在であるから、非可視的であることとなる。しかるに絵画の美的面は可視的であるから、これは明らかに有体物であり、したがって所有権の客体と解される。対象物に光線が反射し、網膜に画像を結ぶから人は物を見ることができるが、無体物(人の思考によってのみ存在し、物理的実体を有しない)に光線が反射することなどありえない。
3、同事件の一審判決では、「美術の著作物(美術的価値)」と示され、この判示は高裁・最高裁判決でも取り消されていない。しかし、物に美術的価値があるか否かは人の主観により定まるのであって、法が決めるものではない。すなわち、「著作権のあるものが美術的価値があり、それのないものには美術的価値がない」なんていうことにはならない。モナ・リザの絵は当初から著作権がないが、これに美術的価値がないと言えるだろうか。
4、著作権の消滅した古い絵画が高額で取引されるケースは多々ある。もし、所有権の客体が有体物で、絵画所有者がその絵画の美的面を支配できないとしたら、美的面を伴わな有体物(絵画の場合、キャンバスとこれに付着した絵具と額縁のみで、額縁に大粒のダイヤが嵌めてあるわけではない)を数億円、数十億円ものカネを出して購入する国公立美術館の行為は、税金の無駄遣いであり、原材料費と業者手数料としてせいぜい数万円が妥当ということになるから、法律家や法学者は当然厳しく批判すべきこととなるが、寡聞にしてそのようなことは聞かない。いうまでもなく、法の専門家を含む万人が、絵画の美術的価値は所有権の客体であることを正しく理解しているのである。
5、判決において、「(上告状の)所論のように、原作品の所有権者はその所有権に基づいて著作物の複製等を許諾する権利をも慣行として有するとするならば、著作権法が著作物の保護期間を定めた意義は全く没却されてしまうことになるのであって、仮にそのような慣行があるとしても、これを法的規範としては是認することはできない」と示している。これは一審判決の評釈(判時1046号)の記述をイタダキしたもので、最高裁判事の自信のなさを示している。そもそも、上記評釈(阿部浩二教授)は所有権と著作権の客体を混同したものであり、大間違いなのである。すなわち、著作権は限時的権利であるのに対し、所有権は客体が存する限り継続するから、著作権が消滅したからといって、もともと存する所有権に基づく画像使用権・許諾権がなくなることはない。
 文化庁編「著作権法入門」において、「(神社仏閣や美術館などの
[写真撮影禁止]の張り紙について)、あくまでも所有者の意思、又は入場時の合意・契約の問題です。」と明記している。そうすると、同じ趣旨の慣行も法的に是認されるべきこととなる。ならぜならば、公序良俗に反する契約は違法・無効とされるから、上記契約と同趣旨の慣行は適法とされるべきこととなる。この点からも当該最高裁判決には問題がある。
 一審判決において、「美術の著作物についての排他的権利は著作権者の利益を保護するため著作権法が特に創設したものであり、従前所有者の有していた権能を所有者の犠牲において著作権者に付与したものではない」と示しており、著作権法の制定により所有者の権利が減殺されたものでないことを明言している。いかなるモノの所有者も、所有物を開示するか否かの決定権を有するから、その画像の開示、画像の使用許諾権も有すると解される。
 当該最高裁判決の解説において次のとおり記されている。「所有者は、その所有物を第三者の観覧に供するかどうか自由になしうることであり、また、観覧者との契約により入場料を徴することも自由になしうることである。右の入場料の徴収や写真撮影の許可などは、原作品について有する所有権に基づくものと解される。」(清永利亮最高裁調査官)
 
 以上のとおりの、大間違いの最高裁判決の結果、美術館や美術品所蔵家は所蔵品写真を一旦使用させれば勝手に使われ、収入源を断たれ、美術館の閉館が続出し、かけがえのない美術品が多数海外に流出している。その一方で、営利企業である出版社やNHKが大儲けしているのである。これは頭の悪い判事や弁護士のせいである。
 なお、当該判決に対する反対学説が二説ある。 
一、田中康博(現・神戸学院大学法科大学院教授)「写真撮影に対する所有権保護について」(京都学園法学1993年第2・3号)
二、辻 正美(当時京都大学教授/故人)「所有権と著作権」(裁判実務大系(旧版)27 青林書院1997年)

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